アサッテの人

注意!以下は「アサッテの人」読後に読まれることを強くお勧めします.

アサッテの人

アサッテの人

まず, 構造を説明すると, 語り手とその叔父が住むレヴェルの世界がまずあって, 語り手は叔父の半生を述べる小説「アサッテの人」を書こうとしている. 今まさに手元にある書籍の形をした「アサッテの人」のテクストは, その語り手が書く「アサッテの人」の草稿や, その際に参考にした叔父の日記などを散りばめながら, 語り手が明示的に読者に向かって叔父の行動を説明したり心理状態を推し測ったりしている, という形で書かれているのだが, この説明口調の文章がまさに語り手が書いている「アサッテの人」そのものである, ということにもなっている. つまりは, とてもややこしい構造をした小説なのである.
ともかく, 個人的にはひどく「しっくりこない」小説であった.
叔父が発する奇妙な「ことば」をスパイスにしつつ, 大きな事件もなく淡々と進む物語は改めてそれだけ抜き出してみると面白いのだが, それを取り巻く(というか小説の大部分を占める)意味不明な「ことば」に対する語り手と叔父本人による解説, ペダンティックにすら思えるほどの妙にややこしい言葉づかいや哲学知識の登場, はしばしに登場する「詩的」なもの, そして冒頭で説明したメタな構造. 僕には, それらのすべてに筆者「諏訪哲史」の過剰な主張を感じてしまい, ことごとく小説の本筋に対して邪魔にしか思えなかったのである. 語り手や叔父の台詞に, いちいち「諏訪哲史が作ったキャラクタ」を感じてしまったのである.
筆者が詩に対して造詣が深いことは想像できるし, だからこそ「ことば」(必ずしも「意味」をともなわない)そのものに対する興味をテーマにしているのだろう, とは思う. 語り手の口調がやたらと解説的なのも, 「定型と脱却」というテーマを実践しているものなのかもしれない. しかしながら, 少なくとも僕のような読者はそんな「筆者の思惑」などよりも「小説から受ける印象」そのものに興味があるのであり, そういう意味では, なんともおかしな後味しか残らなかった.
こういう「選考委員大絶賛!」な小説に薄っぺらく批判的なことを書いてしまったので, 慌てて補足しておくが, 僕は「詩」を全く解さない人間である. 小説には意味を求めないが, 文章には意味を求める人間である. そういう(おそらく)筆者や純文学な人達とは真逆にいるような人間にはいまひとつしっくりこない小説だった, それだけのことである. 悪しからず.