絶対音感

絶対音感 (新潮文庫)

絶対音感 (新潮文庫)

絶対音感とは「聴いた音を, ある絶対的な基準で切り分けることができる能力」, 凄く簡単に言えば, 「聴いた音が, ドレミで言うと何か, がすぐに解る能力」である. 素人の(しかもちょっと音楽を齧ったことのある人間の)感覚では音楽家にとって絶対音感は必須であるとしか思えないのだが, 本書は, 決してそうとは限らない, ということを明解に主張する. 必ずしも絶対音感が芸術性に直結しないことは想像できるが, 技術面ですら「絶対音感はあれば便利ではあるが必須ではない」さらに「場合によっては邪魔になる」という. 多数の一流音楽家のインタヴューを下地にしているのだから, 説得力がある.
さて, この本. 読み始めはなんと面白いテーマをなんと面白い語り口で切ろうとしているのか, と俄然盛り上がっていたのだが, どうも色んなトピックが絡まりすぎていて, 正直「結局どこに着地したのか」がよく解らなくなってしまった. もちろん, こちらの読解力の無さも手伝っているわけだが, それにしても「絶対音感とは何か」と「芸術としての音楽に絶対音感がどう影響するか」は, どちらも片手間で語れるほど簡単な話ではない, ということなのだろう(筆者も, 調べている過程でそれが解り始めて来て持て余したようである). その辺, 切り分けてどちらかに集中して, しかも, 文芸的要素を諦めてあくまでも「解説」として書けば「解り易さ」という点ではもっと良いものが書けただろうな, とは思う. そう, 筆者の力量(科学的な分析力・理解力, と, 文章力)は本書の随所にいやというほど窺える.

絶対音感と言葉

絶対音感とは, 「音程」という連続的な対象を「切り分け」て, その各々に「名前をつける」ことができる能力である. 対象を, ある基準で「切り分け」て「名前をつける」, というのはまさに「ことば」の構造と同じである. 音程の場合は周波数という科学的に観測し数値化することが可能なだけに, 曖昧な「意味」を対象とする自然言語より扱いやすいとも思える(実は全く単純ではない, ということも本書で強調されている点である). 例えばこの絶対音感を実現する構造と, 言葉による抽象化の構造を比較すれば, 脳において言葉がどう処理されているかを考えるヒントにならないのかな, などと無責任なことを言ってみる.

「ドレミファソラシド」は音名か, 階名か?*1

中学校くらいの音楽の時間で「ドレミは階名, ABCやハニホが音名」と習った記憶が明確にあるのだが, その頃から周囲にいた何人かの絶対音感を持った友人(つまり幼少からピアノを習っていた人達)は, 調性に関係なく「ドレミ」で音の名前を呼んでいた. つまり, 彼らは「ドレミ」を音名として使っていたわけで, 個人的には(口に出しはしないものの)これがとても気持ち悪かったのである.
その謎が本書で綺麗に解けた.
つまり, 学校教育では「ドレミは階名」と教え, 専門教育(ピアノ教室や大半の音楽学校)では「ドレミは音名」と教えているらしいのである. 何故そんなことになっているのか, は, ややこしい歴史的事情があるので本書を読んでいただくとして, とりあえず事情はよく解った. 納得.
ちなみに個人的見解としては, 半音階が呼びやすいABCの方が音名を呼ぶのに向いていると思うのだが, 「ドレミ」の本場イタリアでは「ドレミ」は階名として使われているらしい. なんかしっくり来ない.

参考図書

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)

俄然これを読んでみたくなった.

*1:音名とは, ある特定の絶対的な音程に付けられた名前. 例えば「周波数440ヘルツの音」を「ラ」と呼べば, この「ラ」は音名である. 一方, 階名とは, ある調性において基準音から相対的にある特定の度数だけ離れた音程に付けられた名前. 例えば「ハ長調で基準のドから三度上の音」を「ミ」と呼べば, この「ミ」は階名である.