鼻・外套
小説を読むという行為は「提示されたテクストからコンテクストを補完・想像すること」であるとしよう. 自分としては, 芸術一般の観賞において, これはあながちハズしていないと思うのだが, ここでは単なる仮定と考えていただきたい.
さて, そうすると, 翻訳のあるべき姿というのは自ずと決まってきて, それは「テクストを忠実に保存すること」であり「勝手なコンテクストを追加しないこと」であろう. 上の仮定の下では後者の方がより重要であると考える.
実際, 日本の翻訳理論*1の第一人者である柴田元幸は, 小川洋子との対談において次のように言っている(… は中略, 括弧内は要約).
翻訳の際, 作者に意図を訊くか訊かないかということを, よく問われますが, 訊かないです. … そもそも読み手というのは普通, 作者には会えないわけですよね. 読み手代表である翻訳者というのも, それと同じように, やっぱりそこに書かれている言葉がすべてだと思うんですね. だから …(オリジナルの本自体と), ここにいる作者のどっちをとるかといったら, この本をとって, 作者は捨てるんです.
「小川洋子対話集」(幻冬舎)
翻訳が大きな感動を呼ぶ良作であったとしても, その感動がオリジナルのテキストにはない翻訳者の解釈の助けによるものならば, 翻訳としては必ずしもデキが良いとは言えない. それは(現在の仮定の下では)「読者の観賞の自由」を減じているからである.
一方で, 翻訳の読者の多くは原著を読めないからこそ翻訳を読んでいるのである. ということは, 原理的に「翻訳の読者の多くは, その翻訳のデキの良さを判断できない」. 妙な話だが, しようがない. せめてもの抵抗として考えられる方法は「翻訳の読み比べ」である. 同じ作品の, 別の翻訳を読んでみれば, それらの「共通部分」として, より正確なオリジナルの情報が得られるのではないか, というぼんやりとした手段ではあるが, 個人的には興味深い.
前置きが長くなったが, 早い話, ゴーゴリの「鼻」と「外套」の翻訳を岩波版と光文社の「古典新訳文庫」版で読み比べてみたのである. 光文社版の謳い文句が言うには, これは「落語」らしい. 俄然興味が湧いたのである.
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今回初めて翻訳の読み比べをやってみて解ったのだが, (当然のことながら)翻訳というのはかなりオリジナルの表現に忠実になされているらしい. 光文社版は細かい部分(「鼻」の制服のボタンのくだりとか)で, テクストをいくらか省略しているようだが, この程度の省略が一般的なのか, それとも「落語版」という特殊な手法のための珍しいことなのかは不明である.
いずれにせよ, かなり詳細な表現まで, 両翻訳で共通していることからも解るとおり, 翻訳というのは不自由なものなのであろう, それでいて日本語として自然な表現を選ばねばならぬ, というのが難解を極めることは容易に想像できる.
ところで, この「ゴーゴリは落語」という見方であるが, 「鼻」に関しては的を射ていると強く感じた. このシュールさ加減は「胴切り」や「首提灯」を彷彿とさせるし, 鼻がないことを鏡で確認するあたりの「動き」の要素も落語と親和性が高い, と思うのである. そもそも岩波版を読んだ段階で「落語的」なものを強く感じていた*2くらいである. それを押し進めて明示的に「落語風翻訳」というのは非常に面白い. 岩波版と比べてもそれほど「無節操にコンテクストを追加した」わけでもなさそうである, という点で, 翻訳としても充分クオリティが高いのではないか, と思う.
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